安国
┈
5月15日・聖教新聞・「池田華陽会御書30編に学ぶ」・「一生成仏抄」を盗用して青年の洗脳を謀る。
┈
御書を拝する時、その根本的姿勢を間違えば、その解釈もまた間違ったものになる。
┈
池田創価学会は、日蓮大聖人御建立の南無妙法蓮華経の一部、並びに日蓮大聖人の御書を盗用し、皆、数珠を手に懸け、ニセ本尊に向かって大切な時間を浪費している。
凡そ、他宗の儀式や根本義まで盗み、それが「正義」だと言い張っている団体を法律的に認めていること自体、日本国そのものが間違っている。
┈
論を広げ過ぎると混乱を来すので簡単に述べるが、世界の混乱は後に譲り、国内を見るに、あの関西の大地震、そして東北大地震、原発事故、尖閣・竹島問題、これ等は、日蓮大聖人の立正安国論の予言をなぞる様に、池田創価学会の蔓延に歩を合わせ起きているものであり、その責任は、日本の政治的責任は勿論、第一義的には、邪教・池田創価学会にあり、と、立正安国論に基き、田翁は明確に主張する者である。安国論に曰く「如かず彼の万祈を修せんよりは此の一凶を禁ぜんには。」と。
┈
さて、先ず、御書とは一体どの様なものであるかを明確にしておく必要がある。
池田創価学会は、御書とは如何なるものであるか、その根本的な理解が全く出来ていないのである。
御書は、釈尊の教典の予言に基いて、五濁悪世の浄化の目的を持って、この末法に出現された日蓮大聖人御建立の「三大秘法総在の大御本尊」の一部であり、後生の我々がその実体を理論的に理解するよすがとなる、ただ一つの解説書なのである。
決して、ニセ本尊などを飾り、詐談を以てわが国の国民からお金を掠め取っている悪辣な池田創価学会の陳腐な欺瞞を塗り込める道具などではないのである。
┈
今日の新聞に盗用されている「一生成仏抄」は、日蓮大聖人御建立の南無妙法蓮華経・事の一念三千を日蓮大聖人ご自身が、信者に解説されているものであり、天台宗的に理屈の了解を求めているものではないのである。
おそらくこの対告衆は、相当な学識ある者で、天台の理論を身に付けていたと推測される。
御書に通解を付けなければならない程度のレベルの低い創価学会の会員程度に出された御文でないことは確かな事実と判断される。
何故なら、この御文自体が天台流に為された「南無妙法蓮華経」の解説書であり、それを、誤解なく読み取ってくれる事を信じて日蓮大聖人が遣わされた事を以て、その理由とする。
┈
今日の新聞の「御書講義」的洗脳教育は1ページに及ぶ大量のものなので、改めて書き写す事はしないが、証拠書類として保存しておく事とする。
┈
平成の現在は、経済主義が確立した形式社会であり、個々人が、自らの現存在に対し思索し分析してその来し方を探り、安心立命を図る作業が何等の価値も持たないとする潮流に押し流されている為、この形式社会に軸足を置いたアンバランスな生き方が正しい人間の生き方であると思い込み、個人の生命の本源からの開放を求めて、その内奥に向かう努力を疎かにしている。
そこに追い討ちをかける様に、折角の日蓮大聖人の「実践的生命哲学」を天台流法華経に後戻りさせ、人間を騙して、低い外道まで落とし、更に宗教を一般企業のレベルにまで落とし込んだ池田創価学会の罪は、おそらく今世紀最大の犯罪と言えるのではないか。
┈
釈尊が説かれた「仏教」の内容は、精査するに、哲学の方向性と生命のアウトラインを朧気に説いてはいるが、言ってみれば、まだ、非常にアバウトに生命論の入り口を説いたに過ぎない。
それでも、画期的な哲学であったため、皆、驚いたのであろうが、少し、誇大宣伝に過ぎる点は否めない。
┈
また、竜樹、天台等、また大乗哲学を維持・発展させてきた学匠・碩徳に対して後生として尊崇するに田翁は憚らない。
特に天台大師は、法華三大部を講じたが、それは、釈尊の法華経を敷衍し理論的にその言うところを解説したものに過ぎず、具体的に生命の在処を指し示したものではない。
┈
日蓮大聖人は御本仏のお立場で、正確に其の点を「如来滅後五五百歳始観心本尊抄」に、次下の様に述べられている。
「問うて曰く教主釈尊は(此れより堅固に之を秘す)三惑已断の仏なり又十方世界の国主・一切の菩薩・二乗・人天等の主君なり行の時は梵天左に在り、帝釈右に侍り四衆八部後に聳い金剛前に導き八万宝蔵を演説して一切衆生を得脱せしむ是の如き仏陀何を以て我等凡夫の己心に住せしめんや、乃至、本門を以て之を疑わば教主釈尊は五百塵点已前の仏なり因位も又是くの如し、乃至、仏説為りと雖も之を信ず可からず。」と、釈尊の法華経を否定し、また「天台大師は辺鄙の小僧にして一論をも宣べず誰か之を信ぜん、其の上多を捨て小に付くとも法華経の文分明ならば少し恃怙有らんも法華経の文に何れの所にか十界互具・百界千如の分明なる証文之れ有りや、随って経文を開拓するに『断諸法中悪』等云々」と天台も誤りなりと断定しておられるのである。
そして、同抄に「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う」と、三大秘法総在の大御本尊を受持することが「観心」であると説いておられる。
┈
「一生成仏抄」も同じく日蓮大聖人の御書である。
前節に示した「観心本尊抄」に矛盾した解釈が出来ない事は当然である。
┈
池田氏の一生成仏抄の新聞での講義では、「南無妙法蓮華経」を解説して「この心の無限の可能性を開き、自他共の幸福を実現しゆく法こそ『南無妙法蓮華経』です。」としている。そして詳釈として原典をなぞっているが、この講義で「理解できた」という者があったとするなら、それは、大嘘吐きである。
┈
日蓮大聖人は、その御生涯を一貫して「三大秘法総在の大御本尊」の果徳を民衆に得させる為に費やされたのである。
付言すれば、新興宗教の教祖のように、自分自身の欲望達成のために三悪道の魔王となって人々を騙す事に全精力を費やしたのではないのである。
┈
池田氏のこの紙面での御書講義に「御本尊」という言葉は一切出てこないが、それは「出て来ない」のではなく「出せない」のである。
理由は、単純・明快である。
彼が日夜パフォーマンスで手を合わせている御本尊はニセ本尊だからである。
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切り文の御文中「此の法門」を池田氏は通解でも「この法門」とし、「妙法蓮華経」を「妙法蓮華経」としているが、他は措いても、此の肝心を明らかにしていくのが教学であり、講義である筈である。
答は至極単純明快なのである。先程来他の御書をも引き、重複に重複を重ねているが「此の法門」も「妙法蓮華経」も「大御本尊」と拝するのが、日蓮大聖人の御真意であることは論を俟たない。
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ただ、池田氏は「本尊」を口にすると、オウム返しに「ニセ本尊」と返って来る事を恐れて、哀れにも、正確な解釈が出来ないのである。
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講義、背景と大意の④で「映りの悪い鏡も磨けば明鏡となるように、迷いの生命も、深く信心を起して、題目を唱え続けていくことで、仏の生命と輝くと仰せです。」といっているが、これを、我流・我見という。
日蓮大聖人は、決して、そんないい加減な「主語ヌキ」の御書などは書かれていない。インチキ講義で無知な会員を騙し、「広布金」の詐取を謀るものではない。実践的生命哲学である南無妙法蓮華経イコール大御本尊という明鏡に不動の信心を以て向かい奉り題目を唱える事によって、自身の生命が妙法の当体であることが覚知でき、即ち成仏の境涯に至るのである。
それは、凡夫である我が胸中にも仏性が備わっているからであり、大御本尊という明鏡に向かい奉り「南無妙法蓮華経」「南無妙法蓮華経」と題目を唱えなさい。と、この一生成仏抄は結ばれている。
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因みに、池田氏が誰を「師」とするか、それは、池田氏の勝手である。
然し、仮初にも「南無妙法蓮華経」を唱えて、この人生を真に意義あるものとして生きようとする日蓮大聖人の真の門下生であるなら、真の「主」「師」「親」は、日蓮大聖人=大御本尊でなければ、自家撞着の混乱した人生を送るであろう事は、理の帰する処である。
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添削省略
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安国
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5月15日・聖教新聞・「池田華陽会御書30編に学ぶ」・「一生成仏抄」を盗用して青年の洗脳を謀る。
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御書を拝する時、その根本的姿勢を間違えば、その解釈もまた間違ったものになる。
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池田創価学会は、日蓮大聖人御建立の南無妙法蓮華経の一部、並びに日蓮大聖人の御書を盗用し、皆、数珠を手に懸け、ニセ本尊に向かって大切な時間を浪費している。
凡そ、他宗の儀式や根本義まで盗み、それが「正義」だと言い張っている団体を法律的に認めていること自体、日本国そのものが間違っている。
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論を広げ過ぎると混乱を来すので簡単に述べるが、世界の混乱は後に譲り、国内を見るに、あの関西の大地震、そして東北大地震、原発事故、尖閣・竹島問題、これ等は、日蓮大聖人の立正安国論の予言をなぞる様に、池田創価学会の蔓延に歩を合わせ起きているものであり、その責任は、日本の政治的責任は勿論、第一義的には、邪教・池田創価学会にあり、と、立正安国論に基き、田翁は明確に主張する者である。安国論に曰く「如かず彼の万祈を修せんよりは此の一凶を禁ぜんには。」と。
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さて、先ず、御書とは一体どの様なものであるかを明確にしておく必要がある。
池田創価学会は、御書とは如何なるものであるか、その根本的な理解が全く出来ていないのである。
御書は、釈尊の教典の予言に基いて、五濁悪世の浄化の目的を持って、この末法に出現された日蓮大聖人御建立の「三大秘法総在の大御本尊」の一部であり、後生の我々がその実体を理論的に理解するよすがとなる、ただ一つの解説書なのである。
決して、ニセ本尊などを飾り、詐談を以てわが国の国民からお金を掠め取っている悪辣な池田創価学会の陳腐な欺瞞を塗り込める道具などではないのである。
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今日の新聞に盗用されている「一生成仏抄」は、日蓮大聖人御建立の南無妙法蓮華経・事の一念三千を日蓮大聖人ご自身が、信者に解説されているものであり、天台宗的に理屈の了解を求めているものではないのである。
おそらくこの対告衆は、相当な学識ある者で、天台の理論を身に付けていたと推測される。
御書に通解を付けなければならない程度のレベルの低い創価学会の会員程度に出された御文でないことは確かな事実と判断される。
何故なら、この御文自体が天台流に為された「南無妙法蓮華経」の解説書であり、それを、誤解なく読み取ってくれる事を信じて日蓮大聖人が遣わされた事を以て、その理由とする。
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今日の新聞の「御書講義」的洗脳教育は1ページに及ぶ大量のものなので、改めて書き写す事はしないが、証拠書類として保存しておく事とする。
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平成の現在は、経済主義が確立した形式社会であり、個々人が、自らの現存在に対し思索し分析してその来し方を探り、安心立命を図る作業が何等の価値も持たないとする潮流に押し流されている為、この形式社会に軸足を置いたアンバランスな生き方が正しい人間の生き方であると思い込み、個人の生命の本源からの開放を求めて、その内奥に向かう努力を疎かにしている。
そこに追い討ちをかける様に、折角の日蓮大聖人の「実践的生命哲学」を天台流法華経に後戻りさせ、人間を騙して、低い外道まで落とし、更に宗教を一般企業のレベルにまで落とし込んだ池田創価学会の罪は、おそらく今世紀最大の犯罪と言えるのではないか。
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釈尊が説かれた「仏教」の内容は、精査するに、哲学の方向性と生命のアウトラインを朧気に説いてはいるが、言ってみれば、まだ、非常にアバウトに生命論の入り口を説いたに過ぎない。
それでも、画期的な哲学であったため、皆、驚いたのであろうが、少し、誇大宣伝に過ぎる点は否めない。
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また、竜樹、天台等、また大乗哲学を維持・発展させてきた学匠・碩徳に対して後生として尊崇するに田翁は憚らない。
特に天台大師は、法華三大部を講じたが、それは、釈尊の法華経を敷衍し理論的にその言うところを解説したものに過ぎず、具体的に生命の在処を指し示したものではない。
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日蓮大聖人は御本仏のお立場で、正確に其の点を「如来滅後五五百歳始観心本尊抄」に、次下の様に述べられている。
「問うて曰く教主釈尊は(此れより堅固に之を秘す)三惑已断の仏なり又十方世界の国主・一切の菩薩・二乗・人天等の主君なり行の時は梵天左に在り、帝釈右に侍り四衆八部後に聳い金剛前に導き八万宝蔵を演説して一切衆生を得脱せしむ是の如き仏陀何を以て我等凡夫の己心に住せしめんや、乃至、本門を以て之を疑わば教主釈尊は五百塵点已前の仏なり因位も又是くの如し、乃至、仏説為りと雖も之を信ず可からず。」と、釈尊の法華経を否定し、また「天台大師は辺鄙の小僧にして一論をも宣べず誰か之を信ぜん、其の上多を捨て小に付くとも法華経の文分明ならば少し恃怙有らんも法華経の文に何れの所にか十界互具・百界千如の分明なる証文之れ有りや、随って経文を開拓するに『断諸法中悪』等云々」と天台も誤りなりと断定しておられるのである。
そして、同抄に「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う」と、三大秘法総在の大御本尊を受持することが「観心」であると説いておられる。
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「一生成仏抄」も同じく日蓮大聖人の御書である。
前節に示した「観心本尊抄」に矛盾した解釈が出来ない事は当然である。
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池田氏の一生成仏抄の新聞での講義では、「南無妙法蓮華経」を解説して「この心の無限の可能性を開き、自他共の幸福を実現しゆく法こそ『南無妙法蓮華経』です。」としている。そして詳釈として原典をなぞっているが、この講義で「理解できた」という者があったとするなら、それは、大嘘吐きである。
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日蓮大聖人は、その御生涯を一貫して「三大秘法総在の大御本尊」の果徳を民衆に得させる為に費やされたのである。
付言すれば、新興宗教の教祖のように、自分自身の欲望達成のために三悪道の魔王となって人々を騙す事に全精力を費やしたのではないのである。
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池田氏のこの紙面での御書講義に「御本尊」という言葉は一切出てこないが、それは「出て来ない」のではなく「出せない」のである。
理由は、単純・明快である。
彼が日夜パフォーマンスで手を合わせている御本尊はニセ本尊だからである。
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切り文の御文中「此の法門」を池田氏は通解でも「この法門」とし、「妙法蓮華経」を「妙法蓮華経」としているが、他は措いても、此の肝心を明らかにしていくのが教学であり、講義である筈である。
答は至極単純明快なのである。先程来他の御書をも引き、重複に重複を重ねているが「此の法門」も「妙法蓮華経」も「大御本尊」と拝するのが、日蓮大聖人の御真意であることは論を俟たない。
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ただ、池田氏は「本尊」を口にすると、オウム返しに「ニセ本尊」と返って来る事を恐れて、哀れにも、正確な解釈が出来ないのである。
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講義、背景と大意の④で「映りの悪い鏡も磨けば明鏡となるように、迷いの生命も、深く信心を起して、題目を唱え続けていくことで、仏の生命と輝くと仰せです。」といっているが、これを、我流・我見という。
日蓮大聖人は、決して、そんないい加減な「主語ヌキ」の御書などは書かれていない。インチキ講義で無知な会員を騙し、「広布金」の詐取を謀るものではない。実践的生命哲学である南無妙法蓮華経イコール大御本尊という明鏡に不動の信心を以て向かい奉り題目を唱える事によって、自身の生命が妙法の当体であることが覚知でき、即ち成仏の境涯に至るのである。
それは、凡夫である我が胸中にも仏性が備わっているからであり、大御本尊という明鏡に向かい奉り「南無妙法蓮華経」「南無妙法蓮華経」と題目を唱えなさい。と、この一生成仏抄は結ばれている。
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因みに、池田氏が誰を「師」とするか、それは、池田氏の勝手である。
然し、仮初にも「南無妙法蓮華経」を唱えて、この人生を真に意義あるものとして生きようとする日蓮大聖人の真の門下生であるなら、真の「主」「師」「親」は、日蓮大聖人=大御本尊でなければ、自家撞着の混乱した人生を送るであろう事は、理の帰する処である。
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添削省略
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