2012年5月24日 (木)

折伏 (82) 仏

我田引水

522日・聖教新聞・「師と共に誉れの青春を」の見出し。女子部教学部長なる方の池田讃歌。

『御書根本』それはまさに、池田先生が若き日より実践してこられたことです」と、述べているが、この論者は、「組織」の魔性の虜となり、池田氏の日蓮大聖人に対する裏切りの罪を御書に転化している。

例えば、釈尊の寿量品に「一心欲見仏」とあるが、この経文は、どこからどう読んでも「一心に仏を見たてまつらんと欲して」としか読めない。

御書・観心本尊抄に、日蓮大聖人は、釈尊の立場を明確に「教主釈尊は(此れより堅固に之を秘す)三惑已断の仏なり、乃至是くの如き仏陀何を以て我等凡夫の己心に住せしめんや」と。

また、「釈尊は始成正覚の仏なり」と。

釈尊は、色々な仏に付いて修行して、この世で始めてご自身が仏になった方である。我々凡夫の生命の中に、すでに「仏界」が具わっているなどとは、説いていない。と仰せである。

故に、この寿量品の経文からは、「一心を見れば仏なり」と読み取る事は出来ないのである。

然し、日蓮大聖人は、「仏はこの凡夫の己心に存在するのだ」と、説かれ、義浄房御書のとおり、「一心を見れば仏なり」と判ぜられたのである。

一生成仏抄にも「若し己心の外に法ありと思わば全く妙法にはあらず」と仏界は、この己心に既に存在していると説かれている。

この判釈は、日蓮大聖人の生命哲学から逆説的にそう理論付けされてから、今でこそ常識となっており、改めて、法華経・提婆達多品などを持ち出して、しかつめらしく説明する必要など全くなくなったが、御在世当時は、仏と言えば、真言宗の大日如来とか、念仏宗の阿弥陀如来とか、己心の外に在った。

池田氏も、青年時代、一眼の亀が大海を彷徨う様なこの人生において、幸いにも日蓮大聖人の生命哲学に遇い、理屈だけでも無始無終の仏の生命の種が我が己心に在る事を教えて下さった日蓮大聖人に礼を尽くし、陳腐な「池田思想」が其れを超える様に存在するかのごとき論を立てることは、良識ある人間の為すべからざる処である事は余りにも明白な人倫ではある。

更に言及するなら、先般の聖教新聞に、「創価三代の像」の写真が載っていた。

池田氏が中心に立ち、その両側に牧口初代会長、戸田二代会長を従えたものであった。

池田氏本人は、当然の感覚で創価学会の主要な建物に是を飾り付けたのであろうが、この行為は、日頃、戸田氏を「師」と仰いでいるとの公言と自家撞着に陥っている事は明白である。

儒教の五常・仁・義・礼・智・信は措こう。

それにしても、恩師を脇士に従えているあの構図は、御本尊の相貌からも、何とも、自語相違の増上慢の極みではある。この醜い欺瞞に満ちた心性の在り処を正義の範として後生に伝えることは、絶対的悪行であることを、池田氏並びに創価学会は、よくよく学び反省の糧としなければならない。

少しく論を戻すが、狭学の徒は、何処までも続く一本の夜道をひたすらに歩み続ける愚に陥り易い。

そして、日蓮大聖人ご指摘の通り、動すれば、日蓮大聖人の生命哲学から、釈尊の法華経へ、釈尊の法華経から天台仏教へ堕ち易いとの通り、創価学会は、当初、完全な日蓮仏法を学んでいたが、その謹厳なるに疲れ、現在理論だけが法華経に近い天台宗までは、完全に堕ちてしまっている。

日蓮大聖人は、天台宗から更に爾前経に逆戻りをし、果ては、外道に堕ち果てるであろう。と、人間の愚かさを予言されているが、この経済主義思想を最高最善のものと設定し、形式的世界建設に歩を進めている「池田思想」をこそ、予言されているものである事は論を俟たない。

池田創価学会は、偏に会員の献金によって、箱物の建造に忙しいが、この姿勢は、釈尊が予言した「多造塔寺堅固」に逆戻りしている事を、果してよく理解し、冷静に歩を進めているかについては、知る由も無い。

唯一つ言える事は、形あるものは儚い。過去の富士大石寺には創価学会が寄進した正本堂、大客殿等が威容を誇っていたと伝えられるが、それから僅かに数十年後の今日、富士大石寺にその面影は露ほども無い。

人間の欲望を形にせんとすれば、色即是空。空しさだけが残るものである。

形式的に「永遠の生命」を説いているのは、一人、仏教だけではなく、西洋の聖人たちも、其処を指差している事は、聖書にも明らかである。

80AD頃、医師であったルカは、その福音書に次下のように書いている。

折しも、イエスは聖霊により喜びに溢れて、こう言われた。「天と地の主なる父よ、私はあなたを公に賛美します。あなたはこれ等の事を賢くて知能の長けた者から注意深く隠し、それを嬰児たちに啓示されたからです。そうです。父よこのようにするのは、あなたのよみされる所となったのです。乃至、子がどの様な者であるかは、父の他には誰も知りませんし、父がどのような方であるかは、子と子が進んで啓示する者を除いては、誰も知りません」

「師よ、何をすれば私は永遠の命を受け継げるでしょうか」

イエス曰く。「律法には何と書いてありますか、あなたはどう読みますか」

彼は答えて言った。「あなたは心を込め、魂を込め、力を込め、思いを込めて、あなたの神、YHVHを愛さねばならない。そして、あなたの隣人を自分自身のように愛さなければならない。」

イエス曰く。「あなたは正しく答えました。このことを行い続けなさい。そうすれば命を得ます」

上記二節は、釈迦仏法、特に爾前経に非常に近い。

己心に、等しく無上の仏種が存することは明確に説かず、阿弥陀如来のようにYHVHが坐す。この二節を、日蓮仏法をもって読み解けば、法華経の提婆品と全く同様に読むことが出来るのであるが、惜しいかな、日蓮大聖人は此処千葉の鄙地に唯一人しか誕生されなかったのである。

その法をお借りして万人等しく己心の仏種を芽吹かせ、それを全身全霊を以て護り育て行き、安心立命の境を拓く事は元より御本仏の願う処である。

その為には、この凡夫に仏性宿る事をまず信じ、己心を御本仏の明鏡に映し出し、題目を唱え切って、その己心の仏種を探し出す行として、儀典が存するのであり、また、その芽を育てるに、未熟な凡夫が、どうして明鏡無しに、果実を稔らせる成木とするまでに育てる事が出来ましょうか。

この木は、お金を湯水の様に注いだからとて育つものではない。

また、大御本尊以外の曇った鉛の鏡に、いかに「映れ」「映れ」と凡夫の垢に塗れたカラ題目を吹き付けても、一向に仏種は見えもせず、折角の骨折りにも磨き育てる事は不可能なのである。

是は物事の道理であり、田翁は、此処に我見の城を建てようとする者ではない。

この教学部長なる論者は、ドサクサに紛れて、次下の様に述べている。

「真剣に仏を求める求道心が、そのまま仏の心となって現れる。師を求め抜き一生懸命に戦う弟子の心は、既に師匠と同じ仏の境涯をあらわしているのです。」と。

現世に、良き師を求め、良き師に習う事は重要なことである。

かるが故に、あらゆる角度から矯めつ眇めつ、真の自主が確立出来る師を選ぶ必要があり、当然、究極の師を「主・師・親」三徳具備の日蓮大聖人にセットし、どんなに遅くとも、この生あるうちに、仏の如何なるをか証得しなければならぬ事は、人間に生を享けた身の負う自主的至上命令でもある。

この論者は、池田氏を「仏」と言っているが、それは誤りである。

この論者の師は池田氏ではあっても、万人が師として仰ぐべき「仏」は三大秘法の南無妙法蓮華経、つまり、大御本尊であり、資本主義に塗れた池田氏は、むしろ反面教師の性格を多分に持つ。と、正確な認識を必要とする。

特に青年は、その者が身に付けている、お金や、地位や、名誉や、絹の背広と言った形式ではなく、それらを全て取り除いた、生命状態が如何に高位に陶冶されているか、其の一点に絞り、真の師を選んで紛れのない人生を歩んで頂きたいものである。

2012年5月22日 (火)

折伏 (81) 恥辱の公開

無明

516日・聖教新聞・大阪の婦人幹部の会員洗脳の弁。

日蓮大聖人御書「一生空しく過して万歳悔ゆること勿れ」富木殿御書を盗用。

「一生空しく過ごして万歳に悔いることがあってはならない。」と、通解を加えている。

そして、更に「寸暇を惜しんで仏法を学び、邪法を破折するなど、悔いのない一生を送るよう教えられています」と、詳釈を加えている。

この洗脳の方程式は、池田氏から教え込まれているのであろう。

池田氏と全く同様のパターンで為されている。

この御書は法本尊を明かされた富木殿に宛てられたものであるが、富木殿は、日蓮大聖人から「日」号を賜り、「日常」と名乗られた、信、行、学に秀でた大信者であった。

その大信者に対して、更に厳しいご指導であるが、日蓮大聖人を御本仏と仰ぎ、堂々たる清浄なる信心を貫いておられたであろう事は、今に確かな証拠を以て偲ばれる。

現在の、中山法華経寺の事実上の開祖である。

さて、この御文は、解釈しようも無く明快そのものである。

論者は池田氏の指導通り、これを2回もリフレインさせて会員の洗脳を目論んでいる。

詳釈では、「そのように教えられている」と、「誰から」という肝心を故意に省略して、その後の文脈から、「誰から」を「池田氏」に置き換えようとし、一文として、その様に構成している。

何とも、ズル賢い組み立て方ではある。

文中「仏法を学び」と言っているが、真剣に真っ直ぐ仏法を学んだなら、池田創価学会のデタラメが直ぐに見破れなければならない。

古巣である日蓮正宗の教義と儀典をソックリ真似て、本尊までニセ本尊を作り上げ、「広布金」等と会員を騙し込んで、その懐を狙っているのが池田創価学会の正体なのである。

色々な人と「仏法対話をした」と言っているが、さはあらず、仏教になど関係の無い者を言葉巧みに騙し込んだだけである。「ニセ本尊」を飾りながら、「仏法対話」をした等とデタラメを書くものではない。

「邪法を破折」などと、他宗の看板をそのまま盗んで来、しかつめらしく書いているが、自分自身の御書の盗用、儀典の盗用、ニセ本尊の破折は行わないのか?

「邪法」と言い他者を「破折」しようとするには、自らが「完全」でなければならないが、池田創価学会は、単なる企業であり、先に挙げるとおり、宗教の本質的条件の何を満たしていると言うのか。

池田創価学会は、現在、お金の力で飾り立て、弱い人間を脅しつけているだけの「シシオドシ」で、「仏法対話」等と、笑止、笑止。

「家族そろって報恩の人生」などと、何処かで拾って来たようなキレイな言葉で貧しい心を飾ろうとしているが、真の報恩とは「大御本尊」に対する信心で行うものであり、創価学会の位階に対する欲望満足に対して持つ汚れた心の在り処を指す「欲界の感情」で為すものではない。

折伏 (80) 名誉教授様

洗脳教育

518日・聖教新聞・1面・「御書と共に・名誉会長が指針を贈る」のコーナー。

「南無妙法蓮華経とばかり唱えて仏になるべき事尤も大切なり、信心の厚薄によるべきなり仏法の根本は信を以て源とす」御書・日女御前御返事を盗用し、「広布金」集めに躍起。

「南無妙法蓮華経とだけとなえて、成仏することが最も大切である。ひとえに信心の厚薄によるのである。仏法の根本は信をもって源とする。」と通解を加えている。

これが洗脳の基本である。

この御書も文語体ではある。しかし、わが国には義務教育がある。

この「通解」が読めて、原文が読めないと言う人が果たしてあるのだろうか?

いや、続けてゴシックで書かれている「同志への指針」も全く同様である。

洗脳の基本は、リフレインすることにある。

このコーナーの、原典から通解、通解から同志への指針と、会員のレベルを最低の所に設定し、同じ事を繰り返す。

これが洗脳の基本形である。

御書に書かれていることは、全て正しい。

また、正しくなければ「聖典」たり得ない。

特にこの御書を頂戴した方は、おそらく初学者であったように考えられる。

池田氏がこの御書を挙げて「信心」を我が方へ捻じ曲げようとしている底意がよく読み取れる。

「同志への指針」は次下の通りである。

「正しい信心こそ、勝利の根本である。妙法を唱え抜く人が一番尊く、一番強い。強盛に「信力」「行力」を奮い起こせば、無量無辺の「仏力」「法力」を、わが生命にあらわすことができる。どんな時も、まず題目だ。題目こそ、いかなる苦悩にも負けず、一切を打開していける究極の原動力なのである。

創価学会員は、これで何か感じませんか?

バカにされていると思いませんか?

原典や通解は誰でもすぐに読める。これが読めない人は、まずいないと言っても過言ではない。

原典は、単純明快である。

ただ単に「この御本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱えなさい。ご本尊を深く信じることによって成仏できるのです」と言っておられるだけなのである。

池田氏は、その原典を「通解」もせずに、そのままリフレインし、「指針」でゴチャゴチャにこね回して解り難くし、論を我田引水、御書の本意を捻じ曲げてニセ本尊に信者を縛りつけようとしている。

そもそも、御書は三大秘法の大御本尊の解説書であり、その御書の底辺には、常に、御本尊がおられるのである。

手元に、複数の「聖書」がある。

いろいろの物語が書いてある。しかし、その底辺には必ず「原神」が存在する。

そんな事は常識なのである。

御書では、全く、池田氏の「指針」のようには言っていない。

一々について検討を加えれば。

御書には、「正しい信心こそ」などとは、何処にも書いていない。

原典の底辺には「御本尊」がおられるのである、「正しい信心」などと抽象的表現をするべきではなく、「大御本尊に向かい南無妙法蓮華経と唱え切る事によって」と、何故、正確に書かないのか?

否。

創価学会の本尊なるものは「ニセ本尊」なので、そう書けない、そう言えない、のである。この指針の出だしで、まず、信心をボカして解り難い方へ論旨をずらしている。

その解りにくくした所へ、「勝利の根本である」と短絡させ、ここで全てを完結させている。これが洗脳の基本なのである。

「妙法を唱え抜く」とは書かれていない。底辺には御本尊が居られるのである。

「御本尊に向かい奉り南無妙法蓮華経と唱えなさい」と書かれているのである。

池田氏も、パフォーマンスでそうしており、会員さんも「ニセ本尊の分身」に向かってそうしているではありませんか?

なぜ、その様に素直に言えないのですか?

本尊が「ニセ本尊」なのでそう言えないと、正直に書くのが「信心」なのではありませんか?

「妙法を唱え抜く人が一番尊く、一番強い」

などと、原典にはない。当時も現在も「仏になる」、所謂「成仏」については、不変の定義があり、仏教は「成仏」をその目的とする教えなのであり、そのことをこそ、教えていくのが「仏教団体」の目的であるべきであり、「広布金」目当ての「信心利用」。池田氏個人の名誉欲を満たすだけの信仰など「信仰」とは絶対に呼ばない。

強盛に「信力」「行力」と。

「広布金」集め、「選挙の票」集め、と、強欲に「集め、集め」することを、「信力」「行力」などと置き換えようと画策してはならない。

その教えは「仏教」には無い。それは「黒魔教」の教えではないのですか?

無量無辺の「仏力」「法力」を、わが生命にあらわすことができる。と。

デタラメを書きなぐり、言いなぐれば良いと言うものではない。

600万世帯という信者さんを蔑ろにするものではない。

中には有名な学者さんも、芸術家も有ると聞く。本当ですか?

こんなデタラメを鵜呑みにする学者など、田翁は「学者」とは絶対に認めない。

自分の「広布金」が創価学会の全てを経営している事が認識できない人間を、知恵ある人間とは、絶対に呼ばない。

この御書の原文なら理解できる。

然し、この一行を理解できる者が創価学会の中に、何方か居られるのであろうか。

「仏力」? 理解できますか?

「法力」? 理解できますか?

この、仏教の究極が出来る方は、信心の必要がない。

デタラメな論を張って、世の中をかき回し、惑わすものではない。

「どんな時も、まず題目だ」

日蓮大聖人は、こんな無責任な事は、書いておられない。

「カラ題目」を唱えろ。などと、何処に書いてあるのか?

ちゃんと、「御本尊(ニセ物ではありませんゾ)を信じて、南無妙法蓮華経と一心に唱えきりなさい」と書かれているではないか。

世界の多くの大学の名誉教授さん?

デタラメな講義をするものではありません。

添削省略。

2012年5月21日 (月)

折伏 (79) 厚顔無知

図々しい

5月19日・聖教新聞・「きょうの発心」・静岡の地方の県長とか?

御書・報恩抄を盗用して厚顔無恥な謗法団体擁護の弁。

「夫れ老狐は塚をあとにせず白亀は毛宝が恩をほうず畜生すらかくのごとしいわうや人倫をや」の御文。

「狐は老いても生まれた古塚を後にせず、毛宝に助けられた白亀も戦に敗れた毛宝を背に乗せて助け、その恩に報じた。畜生すらかくのごとしである。況や人間においておやである。」と通解を加えている。

そして、「報恩こそ、人間としての根本の規範である、と仰せです。」と御文の大意を記している。

この論者の日蓮正宗への入信は、昭和49年とある。

池田氏が日蓮正宗から破門される17年前のことである。つまり、この論者は17年の長きに亘り日蓮正宗の庇を借り、大御本尊を人生の苦しみ解決の拠り所として生活を凌いで来た、と言っている。

創価学会は、昭和3年(1928AD)牧口初代会長の日蓮正宗への入信日を以て教団設立と言っている。

ついこの間、創立80周年の祝典を行ったと聖教新聞にあった。

創価学会が日蓮正宗破門まで、63年の間、日蓮正宗の庇護の下にあった。

人に譬えるならば、今80歳の人が、63歳まで日蓮正宗に育てられた。ということである。

彼は、63歳の時、突然、わざわざフランスまで行き、全く自分の都合で、事実上、この経済主義社会を支配する特権階級によって構成される組織であるユダヤ教に改宗してしまった。

その時を以て、「創価学会」は「池田創価学会」となったのだが、幹部信者は、組織での位階に対する欲望から其れを了とし、破門の原因が一般信者に知らされることはなかった。

「狐は老いても生まれた古塚を忘れない。まして人間の世界である。」

しかし、あろうことか。

池田創価学会は、信者から絞り上げた「お金」をバックに、親の血を、肉を、奪い取って、親殺しの暴挙に出たのである。

経済主義社会である。

お金さえあれば何でも出来る。

それが、ユダヤ教の教義である。

信者は、清浄な他宗の聖典ですっかり騙し込まれ、皆、バカ面をして、ニヤニヤと笑いながら悪事に加担し、せっせと献金に励み、地獄への道を歩かされている。

こんなバカな環境から池田公明党は生み出されているのである。

何の政治理念も持たず、その時、その時、自分たちの都合だけで国民無視の無責任な「たわ言」を吐いている池田公明党が、原発賛成、湾岸戦争賛成などなど、日本を滅亡へと追い込んでいる。

この論者の、生きる指針としている御書を読んで、会員は、自分が騙されている事の認識が湧かないのであろうか?

もう、池田創価学会の中間幹部を始め一般会員は、まっ暗闇の洞窟の中に放り込まれ、何も見えなくなっているのである。

論者の生い立ちなど知る由もないが、日本人として日本に育った者であれば、義務教育ぐらいは受けているであろうに、、、、なんと、人間とは、これ程に愚かになれるものであろうか。

田翁は悲しさの余り、、、、、、、涙も出ない。

2012年5月20日 (日)

折伏 (78) 大悪

5月17日・きょうの発心・「御書・経王殿御返事」を盗用して、ニセ本尊の正当化を謀る。

「わざはひも転じて幸となるべし、あひかまえて御信心を出し此の御本尊に祈念せしめ給へ、何事か成就せざるべき」

「災いも転じて幸いとなるであろう。心して信心を奮い起こし、この御本尊に祈念していきなさい。何事か成就しないことがあろうか。」と通解を加えている。

そして、「どんな境遇にあっても、唱題し抜いた人は、必ず願いを成就できるとおおせです。」と詳釈している。

一体、この詳釈を導き出すに、この簡単な御書をこれほどに繰り返す必要が、何処にあるのだろうか。

理由はかんたんである。

目的は、会員の洗脳にある。そして尤もらしい物語などを付け加え、言葉巧みに、いつしか話を創価学会や池田氏讃歌にもっていき「広布金」集めの運動を展開している。

このコラムの隣には、大見出しで「題目を唱え抜き、壁を破れ」とある。

そして、記事には、「19日は、創価学会常住御本尊記念日です」とある。

創価学会は、暴走している。

創価学会は、日本政府や民衆の愚かに付け入り、ニセ本尊を正当化し、宗教法人・日蓮正宗と見分けの付きにくい「ニセ日蓮正宗」を立ち上げた。

この、法の蹂躙を放置し続ける日本政府に政府としての資格はない。

そしてこの暴走は、必ずや日蓮大聖人の預言書・「立正安国論」をなぞる結末を招来するであろう。

聖教新聞には、この危機をニヤニヤと笑って迎えようとしている痴呆老人の顔・顔・顔が写っている。

この者たちが国会に送り出した政治家たちが、「原子力平和利用」のニセ看板で、原爆をあやつる実験をし、事実上の原爆製造所である「原発」推進に力を貸す悪事を働いていたことなど、全く関知せず、自分たちの行動の全てが「正義」だと、その言葉の根拠を投げ捨て痴呆となって悪事の加担をしている。

池田公明党は知っている。

しかし、この者たちは知らない。

いま、国会は野田総理の「消費税問題」で政局を迎えようとしている。

その裏では、世界の如何なる科学者も予想不可能な「メルトスルー」の未曾有の危機が燻っているのだ。

経済主義社会である。

確かに「消費税問題」も問題ではあろう。しかし、そんな問題は、実は瑣末な取るに足りない問題なのである。

国家の形式上の経営など、右往左往する問題ではない。

理屈は簡単なのである。収入の手段は税収以外ないのである。一方で、宗教法人に対する課税や、特殊法人の一般法人化、貨幣操作による所得制限、及び個人資産制限などを視野に検討を加えつつ、やるだけやってみれば宜しい。

そんな小手先の問題ではない。

有識者は、皆、深刻化が進んでいる福島の状況に夜も眠れない状態なのである。

池田創価学会は、単なる「集金団体」であり、「宗教」としての全ては、宗教法人・日蓮正宗の盗用である。

この団体が、独立した一つの宗教団体として存立する根拠は全く無いのである。

この大悪事は、日蓮大聖人の仏法を悪用している為、必ず、日蓮大聖人の御書「立正安国論」の通りの結果を招来するであろう。

「きょうの発心」の論者が盗用した御書の切り文の直前には、「日蓮がたましひをすみににそめながして・かきて候ぞ信じさせ給へ、乃至、顕本遠寿を以て其の命と為す」と。

御本尊は、その形だけ似せれば事足れりとするものではない。

「日蓮大聖人の魂を墨に染め流した」正真正銘の本尊でなければならず、池田創価学会が、金儲けのために、個人の名誉欲達成の為に「ニセ本尊」を偽造してもいいなどとは、御書のどこにも書かれていないのである。

裁きの時は迫っている。

2012年5月19日 (土)

折伏 (77) 立正

安国

515日・聖教新聞・「池田華陽会御書30編に学ぶ」・「一生成仏抄」を盗用して青年の洗脳を謀る。

御書を拝する時、その根本的姿勢を間違えば、その解釈もまた間違ったものになる。

池田創価学会は、日蓮大聖人御建立の南無妙法蓮華経の一部、並びに日蓮大聖人の御書を盗用し、皆、数珠を手に懸け、ニセ本尊に向かって大切な時間を浪費している。

凡そ、他宗の儀式や根本義まで盗み、それが「正義」だと言い張っている団体を法律的に認めていること自体、日本国そのものが間違っている。

論を広げ過ぎると混乱を来すので簡単に述べるが、世界の混乱は後に譲り、国内を見るに、あの関西の大地震、そして東北大地震、原発事故、尖閣・竹島問題、これ等は、日蓮大聖人の立正安国論の予言をなぞる様に、池田創価学会の蔓延に歩を合わせ起きているものであり、その責任は、日本の政治的責任は勿論、第一義的には、邪教・池田創価学会にあり、と、立正安国論に基き、田翁は明確に主張する者である。安国論に曰く「如かず彼の万祈を修せんよりは此の一凶を禁ぜんには。」と。

さて、先ず、御書とは一体どの様なものであるかを明確にしておく必要がある。

池田創価学会は、御書とは如何なるものであるか、その根本的な理解が全く出来ていないのである。

御書は、釈尊の教典の予言に基いて、五濁悪世の浄化の目的を持って、この末法に出現された日蓮大聖人御建立の「三大秘法総在の大御本尊」の一部であり、後生の我々がその実体を理論的に理解するよすがとなる、ただ一つの解説書なのである。

決して、ニセ本尊などを飾り、詐談を以てわが国の国民からお金を掠め取っている悪辣な池田創価学会の陳腐な欺瞞を塗り込める道具などではないのである。

今日の新聞に盗用されている「一生成仏抄」は、日蓮大聖人御建立の南無妙法蓮華経・事の一念三千を日蓮大聖人ご自身が、信者に解説されているものであり、天台宗的に理屈の了解を求めているものではないのである。

おそらくこの対告衆は、相当な学識ある者で、天台の理論を身に付けていたと推測される。

御書に通解を付けなければならない程度のレベルの低い創価学会の会員程度に出された御文でないことは確かな事実と判断される。

何故なら、この御文自体が天台流に為された「南無妙法蓮華経」の解説書であり、それを、誤解なく読み取ってくれる事を信じて日蓮大聖人が遣わされた事を以て、その理由とする。

今日の新聞の「御書講義」的洗脳教育は1ページに及ぶ大量のものなので、改めて書き写す事はしないが、証拠書類として保存しておく事とする。

平成の現在は、経済主義が確立した形式社会であり、個々人が、自らの現存在に対し思索し分析してその来し方を探り、安心立命を図る作業が何等の価値も持たないとする潮流に押し流されている為、この形式社会に軸足を置いたアンバランスな生き方が正しい人間の生き方であると思い込み、個人の生命の本源からの開放を求めて、その内奥に向かう努力を疎かにしている。

そこに追い討ちをかける様に、折角の日蓮大聖人の「実践的生命哲学」を天台流法華経に後戻りさせ、人間を騙して、低い外道まで落とし、更に宗教を一般企業のレベルにまで落とし込んだ池田創価学会の罪は、おそらく今世紀最大の犯罪と言えるのではないか。

釈尊が説かれた「仏教」の内容は、精査するに、哲学の方向性と生命のアウトラインを朧気に説いてはいるが、言ってみれば、まだ、非常にアバウトに生命論の入り口を説いたに過ぎない。

それでも、画期的な哲学であったため、皆、驚いたのであろうが、少し、誇大宣伝に過ぎる点は否めない。

また、竜樹、天台等、また大乗哲学を維持・発展させてきた学匠・碩徳に対して後生として尊崇するに田翁は憚らない。

特に天台大師は、法華三大部を講じたが、それは、釈尊の法華経を敷衍し理論的にその言うところを解説したものに過ぎず、具体的に生命の在処を指し示したものではない。

日蓮大聖人は御本仏のお立場で、正確に其の点を「如来滅後五五百歳始観心本尊抄」に、次下の様に述べられている。

「問うて曰く教主釈尊は(此れより堅固に之を秘す)三惑已断の仏なり又十方世界の国主・一切の菩薩・二乗・人天等の主君なり行の時は梵天左に在り、帝釈右に侍り四衆八部後に聳い金剛前に導き八万宝蔵を演説して一切衆生を得脱せしむ是の如き仏陀何を以て我等凡夫の己心に住せしめんや、乃至、本門を以て之を疑わば教主釈尊は五百塵点已前の仏なり因位も又是くの如し、乃至、仏説為りと雖も之を信ず可からず。」と、釈尊の法華経を否定し、また「天台大師は辺鄙の小僧にして一論をも宣べず誰か之を信ぜん、其の上多を捨て小に付くとも法華経の文分明ならば少し恃怙有らんも法華経の文に何れの所にか十界互具・百界千如の分明なる証文之れ有りや、随って経文を開拓するに『断諸法中悪』等云々」と天台も誤りなりと断定しておられるのである。

そして、同抄に「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う」と、三大秘法総在の大御本尊を受持することが「観心」であると説いておられる。

「一生成仏抄」も同じく日蓮大聖人の御書である。

前節に示した「観心本尊抄」に矛盾した解釈が出来ない事は当然である。

池田氏の一生成仏抄の新聞での講義では、「南無妙法蓮華経」を解説して「この心の無限の可能性を開き、自他共の幸福を実現しゆく法こそ『南無妙法蓮華経』です。」としている。そして詳釈として原典をなぞっているが、この講義で「理解できた」という者があったとするなら、それは、大嘘吐きである。

日蓮大聖人は、その御生涯を一貫して「三大秘法総在の大御本尊」の果徳を民衆に得させる為に費やされたのである。

付言すれば、新興宗教の教祖のように、自分自身の欲望達成のために三悪道の魔王となって人々を騙す事に全精力を費やしたのではないのである。

池田氏のこの紙面での御書講義に「御本尊」という言葉は一切出てこないが、それは「出て来ない」のではなく「出せない」のである。

理由は、単純・明快である。

彼が日夜パフォーマンスで手を合わせている御本尊はニセ本尊だからである。

切り文の御文中「此の法門」を池田氏は通解でも「この法門」とし、「妙法蓮華経」を「妙法蓮華経」としているが、他は措いても、此の肝心を明らかにしていくのが教学であり、講義である筈である。

答は至極単純明快なのである。先程来他の御書をも引き、重複に重複を重ねているが「此の法門」も「妙法蓮華経」も「大御本尊」と拝するのが、日蓮大聖人の御真意であることは論を俟たない。

ただ、池田氏は「本尊」を口にすると、オウム返しに「ニセ本尊」と返って来る事を恐れて、哀れにも、正確な解釈が出来ないのである。

講義、背景と大意ので「映りの悪い鏡も磨けば明鏡となるように、迷いの生命も、深く信心を起して、題目を唱え続けていくことで、仏の生命と輝くと仰せです。」といっているが、これを、我流・我見という。

日蓮大聖人は、決して、そんないい加減な「主語ヌキ」の御書などは書かれていない。インチキ講義で無知な会員を騙し、「広布金」の詐取を謀るものではない。実践的生命哲学である南無妙法蓮華経イコール大御本尊という明鏡に不動の信心を以て向かい奉り題目を唱える事によって、自身の生命が妙法の当体であることが覚知でき、即ち成仏の境涯に至るのである。

それは、凡夫である我が胸中にも仏性が備わっているからであり、大御本尊という明鏡に向かい奉り「南無妙法蓮華経」「南無妙法蓮華経」と題目を唱えなさい。と、この一生成仏抄は結ばれている。

因みに、池田氏が誰を「師」とするか、それは、池田氏の勝手である。

然し、仮初にも「南無妙法蓮華経」を唱えて、この人生を真に意義あるものとして生きようとする日蓮大聖人の真の門下生であるなら、真の「主」「師」「親」は、日蓮大聖人=大御本尊でなければ、自家撞着の混乱した人生を送るであろう事は、理の帰する処である。

添削省略

安国

515日・聖教新聞・「池田華陽会御書30編に学ぶ」・「一生成仏抄」を盗用して青年の洗脳を謀る。

御書を拝する時、その根本的姿勢を間違えば、その解釈もまた間違ったものになる。

池田創価学会は、日蓮大聖人御建立の南無妙法蓮華経の一部、並びに日蓮大聖人の御書を盗用し、皆、数珠を手に懸け、ニセ本尊に向かって大切な時間を浪費している。

凡そ、他宗の儀式や根本義まで盗み、それが「正義」だと言い張っている団体を法律的に認めていること自体、日本国そのものが間違っている。

論を広げ過ぎると混乱を来すので簡単に述べるが、世界の混乱は後に譲り、国内を見るに、あの関西の大地震、そして東北大地震、原発事故、尖閣・竹島問題、これ等は、日蓮大聖人の立正安国論の予言をなぞる様に、池田創価学会の蔓延に歩を合わせ起きているものであり、その責任は、日本の政治的責任は勿論、第一義的には、邪教・池田創価学会にあり、と、立正安国論に基き、田翁は明確に主張する者である。安国論に曰く「如かず彼の万祈を修せんよりは此の一凶を禁ぜんには。」と。

さて、先ず、御書とは一体どの様なものであるかを明確にしておく必要がある。

池田創価学会は、御書とは如何なるものであるか、その根本的な理解が全く出来ていないのである。

御書は、釈尊の教典の予言に基いて、五濁悪世の浄化の目的を持って、この末法に出現された日蓮大聖人御建立の「三大秘法総在の大御本尊」の一部であり、後生の我々がその実体を理論的に理解するよすがとなる、ただ一つの解説書なのである。

決して、ニセ本尊などを飾り、詐談を以てわが国の国民からお金を掠め取っている悪辣な池田創価学会の陳腐な欺瞞を塗り込める道具などではないのである。

今日の新聞に盗用されている「一生成仏抄」は、日蓮大聖人御建立の南無妙法蓮華経・事の一念三千を日蓮大聖人ご自身が、信者に解説されているものであり、天台宗的に理屈の了解を求めているものではないのである。

おそらくこの対告衆は、相当な学識ある者で、天台の理論を身に付けていたと推測される。

御書に通解を付けなければならない程度のレベルの低い創価学会の会員程度に出された御文でないことは確かな事実と判断される。

何故なら、この御文自体が天台流に為された「南無妙法蓮華経」の解説書であり、それを、誤解なく読み取ってくれる事を信じて日蓮大聖人が遣わされた事を以て、その理由とする。

今日の新聞の「御書講義」的洗脳教育は1ページに及ぶ大量のものなので、改めて書き写す事はしないが、証拠書類として保存しておく事とする。

平成の現在は、経済主義が確立した形式社会であり、個々人が、自らの現存在に対し思索し分析してその来し方を探り、安心立命を図る作業が何等の価値も持たないとする潮流に押し流されている為、この形式社会に軸足を置いたアンバランスな生き方が正しい人間の生き方であると思い込み、個人の生命の本源からの開放を求めて、その内奥に向かう努力を疎かにしている。

そこに追い討ちをかける様に、折角の日蓮大聖人の「実践的生命哲学」を天台流法華経に後戻りさせ、人間を騙して、低い外道まで落とし、更に宗教を一般企業のレベルにまで落とし込んだ池田創価学会の罪は、おそらく今世紀最大の犯罪と言えるのではないか。

釈尊が説かれた「仏教」の内容は、精査するに、哲学の方向性と生命のアウトラインを朧気に説いてはいるが、言ってみれば、まだ、非常にアバウトに生命論の入り口を説いたに過ぎない。

それでも、画期的な哲学であったため、皆、驚いたのであろうが、少し、誇大宣伝に過ぎる点は否めない。

また、竜樹、天台等、また大乗哲学を維持・発展させてきた学匠・碩徳に対して後生として尊崇するに田翁は憚らない。

特に天台大師は、法華三大部を講じたが、それは、釈尊の法華経を敷衍し理論的にその言うところを解説したものに過ぎず、具体的に生命の在処を指し示したものではない。

日蓮大聖人は御本仏のお立場で、正確に其の点を「如来滅後五五百歳始観心本尊抄」に、次下の様に述べられている。

「問うて曰く教主釈尊は(此れより堅固に之を秘す)三惑已断の仏なり又十方世界の国主・一切の菩薩・二乗・人天等の主君なり行の時は梵天左に在り、帝釈右に侍り四衆八部後に聳い金剛前に導き八万宝蔵を演説して一切衆生を得脱せしむ是の如き仏陀何を以て我等凡夫の己心に住せしめんや、乃至、本門を以て之を疑わば教主釈尊は五百塵点已前の仏なり因位も又是くの如し、乃至、仏説為りと雖も之を信ず可からず。」と、釈尊の法華経を否定し、また「天台大師は辺鄙の小僧にして一論をも宣べず誰か之を信ぜん、其の上多を捨て小に付くとも法華経の文分明ならば少し恃怙有らんも法華経の文に何れの所にか十界互具・百界千如の分明なる証文之れ有りや、随って経文を開拓するに『断諸法中悪』等云々」と天台も誤りなりと断定しておられるのである。

そして、同抄に「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う」と、三大秘法総在の大御本尊を受持することが「観心」であると説いておられる。

「一生成仏抄」も同じく日蓮大聖人の御書である。

前節に示した「観心本尊抄」に矛盾した解釈が出来ない事は当然である。

池田氏の一生成仏抄の新聞での講義では、「南無妙法蓮華経」を解説して「この心の無限の可能性を開き、自他共の幸福を実現しゆく法こそ『南無妙法蓮華経』です。」としている。そして詳釈として原典をなぞっているが、この講義で「理解できた」という者があったとするなら、それは、大嘘吐きである。

日蓮大聖人は、その御生涯を一貫して「三大秘法総在の大御本尊」の果徳を民衆に得させる為に費やされたのである。

付言すれば、新興宗教の教祖のように、自分自身の欲望達成のために三悪道の魔王となって人々を騙す事に全精力を費やしたのではないのである。

池田氏のこの紙面での御書講義に「御本尊」という言葉は一切出てこないが、それは「出て来ない」のではなく「出せない」のである。

理由は、単純・明快である。

彼が日夜パフォーマンスで手を合わせている御本尊はニセ本尊だからである。

切り文の御文中「此の法門」を池田氏は通解でも「この法門」とし、「妙法蓮華経」を「妙法蓮華経」としているが、他は措いても、此の肝心を明らかにしていくのが教学であり、講義である筈である。

答は至極単純明快なのである。先程来他の御書をも引き、重複に重複を重ねているが「此の法門」も「妙法蓮華経」も「大御本尊」と拝するのが、日蓮大聖人の御真意であることは論を俟たない。

ただ、池田氏は「本尊」を口にすると、オウム返しに「ニセ本尊」と返って来る事を恐れて、哀れにも、正確な解釈が出来ないのである。

講義、背景と大意ので「映りの悪い鏡も磨けば明鏡となるように、迷いの生命も、深く信心を起して、題目を唱え続けていくことで、仏の生命と輝くと仰せです。」といっているが、これを、我流・我見という。

日蓮大聖人は、決して、そんないい加減な「主語ヌキ」の御書などは書かれていない。インチキ講義で無知な会員を騙し、「広布金」の詐取を謀るものではない。実践的生命哲学である南無妙法蓮華経イコール大御本尊という明鏡に不動の信心を以て向かい奉り題目を唱える事によって、自身の生命が妙法の当体であることが覚知でき、即ち成仏の境涯に至るのである。

それは、凡夫である我が胸中にも仏性が備わっているからであり、大御本尊という明鏡に向かい奉り「南無妙法蓮華経」「南無妙法蓮華経」と題目を唱えなさい。と、この一生成仏抄は結ばれている。

因みに、池田氏が誰を「師」とするか、それは、池田氏の勝手である。

然し、仮初にも「南無妙法蓮華経」を唱えて、この人生を真に意義あるものとして生きようとする日蓮大聖人の真の門下生であるなら、真の「主」「師」「親」は、日蓮大聖人=大御本尊でなければ、自家撞着の混乱した人生を送るであろう事は、理の帰する処である。

添削省略

2012年5月17日 (木)

折伏 (76) 人間

宿題

今一度、515日の聖教新聞・「妙法根本に最極の人生の道を」に盗用してある「一生成仏抄」の問題点を検討して見ましょう。

創価学会が行う御書講義の決定的な誤りは、「南無妙法蓮華経」という、生命哲学の教相を利用して、池田氏個人の経済主義社会における欲望達成の手段としている処にあり、彼が、それを、日蓮大聖人の仏法で厚く厚く塗りこめている大いなる欺瞞に皆騙されているに過ぎないのですが、人間は元より愚かな生き物で、会員は、池田氏の「大きな個人的欲望」に飲み込まれ、その善悪が弁別できないで居るのです。

仏教には、元より人間は、むさぼり、いかり、おろか、の三つの「毒」に冒されているが故に、真の幸せを得る事が出来ない、と説かれており、この三つの「毒」をどのようにコントロールして、どうしたら人間として、自分が現在存在する現実を自分に偽りなく自由に生き切ることが出来るかを考え、その理論と、理論の実現方法を説いたのが、日蓮大聖人の「実践的生命哲学」なのです。

この、考える葦・人間は、一体どこから来、どこへ行くのでしょう。

日蓮大聖人は、現在存在する自分と「自分を取り巻く」時間とか、この目に見える景色とか、目には見えないが実際に存在するこの空間とか、自分が置かれている生活環境とか、これ等、目で、耳で、肌で感じられる全ての世界を、どう捉え、どの様に生きてゆくべきが本当に人間が人間として生きるべき道なのかを究明し、その全ての存在の根本には「生命」と名づけるこの宇宙の基軸があり、人間もこの宇宙の基軸に、存在として「ある」。と説いているのです。

この「人間の存在」に対する追及は、人類を形而下的・歴史学的に解明しようとする進化論とは、かなり違った方向から「人類の起源説」を唱えている事になります。

我々新人類は、良く知られるホモ・サピエンスの一種・アフリカのミトコンドリア・イヴの子孫で、20万年~14万年前に誕生したのではないかと言われていますが、日蓮大聖人は、宇宙誕生のその源の「生命」として、既に存在していたと説いています。

その「生命」について、どの様に説明したら、第三者の理解を得られるのか非常に難しい問題ではありますが、大略、以下のように記しておきます。

この宇宙は、現在の科学では、時間も空間もない(時間や空間といった観念では捉えることの出来ない)ビッグバンのマイナス44乗秒後のブランク時間を誕生の起源としますが、その宇宙のメカニズムをコントロールしているものを「生命」と名づけ、人間の生命もその宇宙を構成する一要素として、後付的に、その生命と同一のものである。したがって、この宇宙の原初には、既に我々は生命として存在していたと説いています。

言ってみれば、時間も、空間も、物質も、精神も、何もかも全てを平面上に乗せ、それを世界と名付けましょう。その世界に、仮に交差する二本の線をひいてみましょう。これが、我々が認識している「世界」だと仮定しますと、その二本の線の交点を縦方向に突き抜けている軸線を想像してみて下さい。

そして、独楽(コマ)を想像してみてください。

そうです、宇宙の全て、当然、この太陽系も、地球も、草や木も、人間個々人も、その全てが本来的に持っている生命軸を中心にして回っているのです。

つまり、生きて活動しているのです。

然し、ここに、たった一つの問題があります。

冷静に周囲を見回してみましょう。 

何がご覧になれましたか?

この世の中、何かとタイヘンですネ。田翁も、複数の税務申告手続きや、ボランティア活動や、肉体労働に追われて忙しくしています。

では、これを宿題にしておきましょう。

2012年5月16日 (水)

折伏 (75) 吉本劇場

目眩まし

もう一週間も前になるであろうか。“きょうの発心”のコラムに「一生成仏抄」が盗用されていた。

この難解な御書を本当に読み切っているのだろうか。心配していたことを思い出したが、今日、改めて、聖教新聞・「御書に学ぶ」のページに「一生成仏抄」が教材として掲載されている。

「大丈夫かな?」心配しながら読んでみた。

案の定。 池田創価学会は御書が読めない。

その決定的な理由は、「三大秘法総在の大御本尊」を欠いていることに尽きる。

御書の解釈に、真に池田氏が関わったことはなく、常に誰かが解釈したものを横取りして表に出していた事は、其の時々、御書の解釈が変る事で証明できる。

この「一生成仏抄」のような教義の肝心に迫る御書の解読は、単なる古文の専門家に出来るものではなく、また、その講義を受ける側にも、一定の素養と確かな信心を必要とするものであり、普段マンガ本や週刊誌、また現代文の小説ばかりを読んでいる者に講義しても、「絶対」と言えるほどに理解出来るものではない。

この御抄前出の折、「信心の初心者には難しい御書である」という意味の事を書いた記憶があるが、生半の者に「目眩まし」を掛けるには持って来いの御書である。

果たして、この聖教新聞の通解、又は、その解説で、どれ程の割合の人がこの御書を正確に理解出来たであろうか。この御抄前出の折、何処ぞの女性幹部が全くトンチンカンな解釈をしていたのを思い出したが、まして、それよりも数段、信心の初心者への講義である。

この解説を、そのまま丸暗記して覚え、一人前のように「説法者」に育った場合の、日蓮大聖人の真の仏法の破壊を恐れる者である。

この講義は、池田氏が行ったものとされているが、さにあらず、この文上読みの流麗さから、三悪道露骨な池田氏の「パフォーマンス」は絶対に生まれる筈がない。誰か、他の者の書いたものを、読み上げたものであろうが、何れにしても、日蓮大聖人の仏法の的を射ていない観念的解釈に終始しており、この解釈と、池田氏が「数珠を持ち」「本尊に(ニセ本尊であるが)向かい」「南無妙法蓮華経」と唱えている現実との間に僅かの脈絡も見出す事は不可能である。

池田氏の日頃の行動が間違っているのか。

或いは、この解説が間違っているのか。

はたまた、その何れもが間違っているのか。

その何れか以外に、この御書講義と池田氏の行住坐臥の矛盾を解くことは不可能である。

この新聞に掲載されている受講者の写真は、いたいけな乙女等が皆笑顔で、しかも皆洗脳が完了している、一方向を向いたある種の独特な表情を持っている。

この少女らは果たしてこの御書を読み切るだけの条件を備えているのだろうか。

その条件とはあらまし以下の通りである。

1、古語の知識、及び文語文の理解力。

2、釈尊説くところの仏教全般の知識。

3、法華経、及びその周辺の教典に対する知識。

4、釈迦仏法と天台仏教の相違。

5、天台仏教と日蓮仏法の相違。

6、日蓮仏法に対する正確な理解と正しい実践。

7、各宗派の教義とその問題点。

8、釈尊、世親、天台、伝教等大聖の御一生と、その出世の本懐。

聖教新聞には、常に「通解」が載せてある。当然、これは一般会員さん向けとして必要不可欠のものであろう。

先ず、この段階は常識として、身に付けていなければならない。

また、上掲のアウトラインを少しく踏み入ってみれば、略、以下の様である。

釈尊の仏典として伝えられている小乗、権大乗、実大乗の大意とその各間の相違。

法華経、開結28品の知識。また、その周辺の爾前教との関係。

釈尊出世の本懐。と、その教義・教典の理解。

釈尊滅後出現の各大聖の出世の本懐と教義・教典に関する知識と理解。

日蓮大聖人の出世の本懐と、御書全般のバックボーンの理解。

信心活動と日蓮仏法との整合性。

要は仏教に対する全般的な基本知識と思索力が求められ、その素養と真摯・旺盛な求道心なくしては、教義に関する御書の一行なりとも理解する事は不可能である。ということである。

新聞に掲載される写真の一々まで論うことに抵抗なしとはしないが、日蓮大聖人のみならず、過去の仏たちは皆、身命を賭して人生の如何なるをかを追求し、その結論を提示して下さった、その道場に集う学徒の写真であり、吉本劇場に木戸銭を払って観客となった世間の集いではない。

こんな雰囲気で仏法の真髄が理解できるのか、疑問を抱かざるを得ない。

今日は、御書拝読の基本姿勢だけに止め、一生成仏抄の池田氏の誤りについては、追々述べて行く事とする。

何れにせよ、ニセ本尊に手を合わせ、盗用した御書を読もうとしても、その文章を「文学的」には読めても「哲学的」に読み切る事は不可能なのである。

2012年5月15日 (火)

折伏 (74) 正義

青年の使命

514日聖教新聞・トップに「ブラジル クリチバ市議会 SGI会長夫妻に顕彰状」と。

池田創価学会が虚偽の大城であることは、昨日の日記にも記した通りである。

クリチバ市とは、如何なる未開地なのかは不知。

然し、いかな未開地でも、市議会があるからには文字文化ぐらいはあるのであろう。

クリチバ市に、日本の会員から搾り上げた「浄財」をバラ撒いたのであろう。

或いは、書物も読めない、余程レベルの低い地方都市であるかの何れなのか?

このような茶番、詮索の要もなし。

これを日本の創価学会員も喜んでいるのであろう。皆、クリチバと同程度ということである。真の平和は世界人民の心の浄化にあり、このような形式を追求する創価学会の姿勢は、真の世界平和構築に対する逆行であることを知らねばならぬ。

2面に、米マサチューセッツ大ボストン校の学長が、創価学会ヨイショの講演と。構図はクリチバ市と同様、日本の会員から搾り取った「浄財」のバラ撒きである。しかし、こちらは学問の府である。

お金に目が眩んで、池田創価学会の本質が見えなくなってしまったのであろう。

この程度の大学を出た者が、真の世界平和構築に貢献できるや否や?

並べて痴呆状態である。

“きょうの発心”欄。沖縄男子部長の弁。

「法華経の信心を・とをし給へ・火をきるに・やすみぬれば火をえず」。御書・四条金吾殿御返事を盗用。

「法華経の信心を貫いていきなさい。火をおこすのに、作業を休んでしまえば、火は得られない」。と通解を加えている。

「例えを引いて、信心は持続することが大切である。と四条金吾に教えられた一節です」と詳解している。

このレベルの低さで創価学会沖縄男子部が成立しているのである。

お教えしましょう。ハードを築くには、まずソフトの充実が肝要である。

そのソフトが、論者の様に全くデタラメでは、心を疎外した形式的な世界しか築く事は出来ない。物心両面のバランスの取れた社会建設を目指しているのではないのか。

まず、アバウトに「信心」と言っているが、信心とは何かご存知か?

御書を根幹とするなら、まず、御書の都合読みは避けなければならない。

良く見てみ給え!

「法華経の信心を」としてあるではないか! ゴマカシてはいけない!

現在は、釈尊の教典にもあるとおり、「釈尊の仏法が穏没した」末法である。

「法華経」とは、釈尊の予言通り末法に出現された日蓮大聖人ご建立の、現存在の根源まで掘り下げ解明した生命哲学「南無妙法蓮華経」のことである。

「南無妙法蓮華経」とは、単なる観念哲学ではない。「実践的生命哲学」であり、その実践の基本は、「三大秘法総在の大御本尊」を明鏡として向かい奉り、唱題することであり、その原理に従って、創価学会では、ジュズを持ち、本尊に題目を唱えているのではないのか!

ただ、池田創価学会では、本尊はニセ本尊であり、ニセ本尊をアリガタそうに拝んでいるところに最大の誤りがある! ここまでは、理解できますか?

結びに、「平和の砦」とか「正義の対話」とか。 信心はママゴトではない!

言葉の遊びではない! 真の平和とは何か? 真の正義とは何か? 青年の純真な目で、心で、今一度、真剣な検討を要する!

おのおのが真の正義を打建てる処に、おのおのの真の心の平和はあり、社会はその集合体でなければならない。

より高い生命状態の建設こそ日蓮仏法の目的とする所で、末法のこの世界の混乱は、当に、おのおのがその目的を遂行する真摯な人生構築の努力によって氷解し、その集合体には、自然に平和が到来するのである。

他宗の聖典である御書を盗用するレベルの低い窃盗社会。

この人生を真剣に生きようとしている多くの会員さんを騙して、ニセ本尊に跪かせる悪ふざけ。 

そして、税金さながらに多額の「広布金」を会員さんから搾り上げる悪行。

更に、その「浄財」を個人の名誉欲達成のために横領し続ける池田創価学会の幹部としてその位階に踊らされている論者に、「平和」や「正義」を口にする資格はない。

2012年5月14日 (月)

折伏 (73) 粉飾不可能

本質的汚れ

田翁が、聖教新聞を購読してから、やがて2ヶ月半になる。

思えば池田氏、および創価学会の批判に終始した感がある。

然し、それは田翁の我見からの解釈によるものではなく、実は、全て池田氏が池田氏名義で出版した書物から引用したものだったのである。

池田氏は、実に多くの弁論を展開し、また多くの書物を残しているが、永い間、それらは、池田氏以外の「第三者の業績の盗用」ではないかとの疑念があった。

池田氏が日蓮正宗を破門される以前の「御書講義」や「仏教に関する解説書」は、原島宏治・崇父子の業績の盗用であることが、明らかである。

それは、「精査」するまでもない。 創価学会の書籍の何処を開いても、現在、池田創価学会が言っている事と、過去に発行した書籍との間には、大きな自家撞着があるのである。

今日まで、田翁が指摘してきた池田氏の「信心の指針」については勿論、各地方の幹部たちの一般会員に対する「洗脳」行為である「きょうの発心」も、その教義を他宗から盗んでいる事、また、その解釈を意識して曲げ、承知で、一般会員を悪道に引き入れている事は、紛れもない「黒魔教」の所為であり、限りある人生を、謙虚に真剣に生きようとする人々に対する許しがたい「魔」の行為である。

重ねて記すが、田翁のこの2ヵ月半の日記の全ては、池田氏自身の著作とされている創価学会の出版物からの引用なのである。田翁が変っているのではなく、池田創価学会が、自分の出版物を自分で否定しているに過ぎないのである。

変節という言葉が有る。

自分の信念や主義・主張などを変えることをいうが、池田氏に限って言えば、氏は変節などしてはいない。その本質は元から変っていないことを知るは、日蓮大聖人の御言葉を以てすれば、「日本国に此れをしれる者は但日蓮一人なり」。

資本主義社会である。

もともと、池田氏はこの「資本主義の悪弊」の申し子だったのである。

宗教団体は、如何に大きくとも個人事業である。

一言で言うならば、ハンコを持っている者の物である。

そのハンコの力で、ソフトは、智慧ある者の「頭脳を盗用」すればよい。

先日、中国の大学などに、七言絶句を送った記事が聖教新聞に載っていたが、池田氏には、昔から、自作の物を正式な場所に発表できるほどの正方向の才覚など全く無いのである。

過去の、書物の全て、第三者の頭脳によっている事を以て、それは、立派に証明できるのである。

池田氏は、その周囲を、御書を始めとする正論を悪用できる智慧者で固め、自身は、その本心をヒタ隠しに隠していたのだが、日蓮正宗第67世・日顕上人によって、その本心を見破られ「破門」になったが、それまでも池田氏は、宗門とだけではなく、創価学会内部で女性問題を始めとする様々な問題を起こしていた。

特に、ハンコを持った新興宗教権力者にとって、その信者は言うなりになり、言うなりに働き、言うなりに献金を搾取できるゴイム(ブタ)に過ぎない。

都合の悪い側近は、「ハンコ」の権力で追い落としを掛けて追放し、周囲を、その「ハンコ」にひれ伏す者だけで固めてしまえば何の問題も表面化する事は無い。それが、魔の巣窟、新興宗教、特に、池田創価学会の実態なのである。

トヨタやニッサンが如何に頑張っても、宗教法人には歯が立たない。

一般の企業は5%の純益を上げるには、相当の体力を消耗させなければならないが、宗教法人は無税である。しかも何の労する事もなく、全て純益で蓄積されていくのである。

例えば、創価学会への「献金額」は、企業の献金分も合わせると、毎年一兆円を優に超えると言われている。その「労働なき富」は、優良企業の20兆円の出来高を超えるのである。

宗教法人の税制優遇措置については、たびたび問題にはなるのだが、政治家たちもその票の行方に恐れ、一向に手を打てないのが実情である。

税金だけに限れば、消費税など云々するより先に、税の平等化が先なのであるが、国民の代表でありながら、現政権もほんの一握りのエスタブリッシュメントを生み出す資本主義の悪弊を加速させているが、これを以て不作為の罪と言わず何が政治家の罪と言えるであろうか。

いずれにしても、池田氏の所業は、そのソフトの全てを他宗から盗用している事を以て、独立した宗教法人とは言い難い上に、池田創価学会は、税制の不備を突いた日本国のダニであることは、明白な事実である。

«折伏 (72) 黒魔教